地の文に関する一考察

0.はじめに

 本レポートは、2024年8月22日(火)の20時より行われた、第2回お茶室ラジオ(以後、「第2回おちゃラジ」とする)において、筆者・山内リリが語った内容をもとにしたレポートである。第2回おちゃラジにおいては、筆者がプレゼンターとなり、リスナーから事前募集したおたよりに回答するかたちで、地の文に関する諸種のトピックを語った。また、同じくリスナーから募集した小説(最大1000字程度)の分析も行なった。分析の詳細に関しては、第2回おちゃラジの録音およびレジュメを参照されたい。
 本レポートの構成は以下のようになっている。
 第1章では、「そもそも地の文とは?」について述べる。地の文の定義について、筆者の立場を明確にしたうえで、おたよりの疑問に答える。
 次に、第2章では、「三人称視点の書き方」について述べる。まず西郷(1975)の主張する「限定視点」「全知視点」「客観視点」を紹介し、それぞれの視点での書き方について例文とその解説を示す。また、視点の混同を防ぐためのポイントについても述べる。
 そして、第3章では、「1文の長さと読点のタイミング(句読点の多さ)」について述べる。1文の長さについては、基本的には50字程度にしておき、表現効果を狙って文の長短を調整するのがよい、というのが筆者の主張である。また、可読性向上のための読点の打ち方の他、表現効果としての読点の用い方についても述べる。
 第4章では、「地の文と会話文のバランス」「地の文の文字数」について述べる。筆者に言わせれば、地の文がどれだけ続こうが、会話文がどれだけ連続しようが、その文字数は、本来的に自由なものである。文字数の束縛から自由になろう。また、地の文が何も思い浮かばない際の描写の取っ掛かりとして、「地の文の役割の明確化」および「どの程度詳しく書くか」についても述べる。
 第5章では、「場面転換」について述べる。筆者は基本的に、「理由があるから、場面を切り替える」というスタンスである。詳細に関しては、例文とその解説を参照されたい。
 それでは、夏休みの自由研究のつもりで急遽拵えた、第2回おちゃラジレポート「地の文に関する一考察」をご笑覧ください。


1.そもそも地の文とは?

 そもそも地の文とは何か? これについて、筆者は「かぎ括弧や丸括弧等で囲まれていない全ての文」という立場を取る。また、筆者は、学校教育における物語文・小説の学習の際、かぎ括弧で囲まれている発話文は台詞で、それ以外の文は地の文であるという前提に立った教育が行われている、という認識を持っている。
 なお、精選版日本国語大辞典では、「地の文」は以下のように定義され、初出の実例も挙げられている。この定義を素直に解釈すれば、「文章や語り物における会話や歌は地の文ではない」ということになる。

 では、登場人物が発話をしているが、その発話内容がかぎ括弧で囲まれていない場合、それは地の文であろうか? それとも、会話文であろうか? また、登場人物の心の声が描かれているが、その発話内容がかぎ括弧や丸括弧で囲まれていない(あるいは、「――」「……」といった記号でマークされていない)場合、それは地の文であろうか? それとも、会話文であろうか?
 以下に例を挙げる。

 (2) における「あのさ」は、「口を開いた」という述語からして、「彼」による発話であるといえる。しかし、発話内容はかぎ括弧では囲まれていない。筆者の認識に従えば、この「あのさ」は形式の上では地の文であるが、意味内容を考えれば明らかに会話文である。
 また、(3) における「それって常識的にどうなんだろう?」は、太郎が訝しんだ内容であり、登場人物の心の声であるといえる。しかし、発話内容は丸括弧で囲まれておらず、また、「――」「……」等でマークされていない。筆者の認識に従えば、これも形式の上では地の文であるが、意味内容を考えれば明らかに心情描写である。
 これに関し、筆者は次のように考える。

 かぎ括弧や丸括弧で括っていないが、地の文というには違和感がある……という場合、文章の形式ではなく意味内容にフォーカスしており、文の主観性の高さを判断し、「これは情景描写が多いから地の文」「これは喋っているから会話文」のように考えているものと推測できる。
 (4) および (5) の考え方に基づくと、ある登場人物の発話をかぎ括弧で囲むかそれとも囲まないか、ある人物の心情描写を丸括弧やダッシュで際立たせるかそれとも平坦な地の文にするか、その判断基準は何か、という疑問が生じる。これに関して筆者は、情報の流れが変わるところで発話を地の文に織り込んだり、心情描写を際立たせたりする手法を取ることが多い。
 以下に例を示す。

 (6) では、会話参与者である部長の雰囲気および話題が変わるタイミングで、発話を地の文の中に溶け込ませている。また、(7) では、視点人物の感情が強く動く箇所を、丸括弧を用いて際立たせている。「やばい!」以外も、視点人物の心情描写には「部長に何と答えようか」「忘れてました、なんて言えない」があるが、「やばい!」のみを目立たせるために、丸括弧は用いていない。
 なお、心情描写において、丸括弧を用いるか、「――」や「……」を用いるかは、宗派の違いのようなものだと筆者は考えている。
 以上、本章では地の文の定義について簡単に述べた。また、発話や心情描写を地の文に織り込む際の判断基準についても自説を展開した。次章では、三人称視点の書き方について述べる。


2.三人称視点の書き方

 本章では、三人称視点の書き方についての筆者の見解を述べる。
 第2回おちゃラジのおたよりの一つに、「普段は一人称視点で小説を書いているが、三人称視点に挑戦したい。訓練の方法はあるだろうか?」という旨のおたよりがあった。筆者は、「一人称視点に慣れている人は、三人称限定視点を書いてみるとよい」と回答した。その際、西郷(1975)を引き合いに出して、三人称視点には3つの分類があることを述べた。
 西郷(1975)によれば、三人称視点には「限定視点」「全知視点」「客観視点」の3つの種類がある。

 筆者はこれらを、以下のように解釈した。

 そして筆者は、限定視点と一人称視点に親和性があると考える。
 一人称視点は、一人の登場人物に完全にフォーカスして、その視点人物の立場から状況および登場人物の内面を記述する方法である。一人の登場人物に焦点が当たっているという点において、一人称視点は三人称限定視点とかなり親和性が高いといえる。このため筆者は、一人称視点に慣れている人が三人称視点で書く際、まずは三人称限定視点で書くのがよいのではないかと考えた。
 三人称限定視点では、視点人物の内面を書きつつ、状況をある程度客観的に描くことも可能である。このため、(場合によってはやや不自然になることもあるが)一人称視点の「私」「僕」などの一人称を、視点人物の名前に置き換えると、三人称限定視点になる。
 以下に示す例は、太郎と花子のちょっとした口喧嘩の一幕である。

 (10) は太郎の視点に立った限定視点であるため、地の文において、太郎の内面を描写する表現(推量のモダリティ表現「だろう」の一文や、言いさし文「のに」の一文)を用いている。
 この「太郎」を「僕」に変えることで、三人称限定視点は一人称視点となる。

 (11) では、「太郎」を「僕」にし、地の文の2文目で「僕は」を省略し、「傾げた」を「傾げてみせた」とした。一人称視点と三人称限定視点は、書き方としてかなり近いところに位置しているように感じる。
 上記 (10), (11) は、太郎にフォーカスして登場人物の主観や感情を描いている。これに対して、客観視点では、登場人物の主観や感情が混ざらないように書く。この場合、直接的な主観や感情は台詞で書き、地の文においては感情が行動に現れた描写のみをするとよい。

 「眉をひそめ」「首を傾げた」「語気を強める」は、太郎の行動を描写した表現であるが、太郎の内面(花子に対する不信感や怒りなど)を間接的に描いてもいる。また、「言い放つ」「沈黙した」では、花子の行動を描写しているが、これも同じく、花子の内面(太郎に対する反感、言い返せない悔しさなど)を間接的に述べている。
 客観視点の (12) では登場人物の内面を間接的に述べるに留まった。逆に、全ての登場人物の主観や感情を描写する方法は、全知視点に分類される。

 (13) は、まず太郎の内面に潜り込んだ後、「しかし花子も花子で、」と視点を花子に切り替えて、花子の内面を描写している。その後、太郎の発話をきっかけとして視点を太郎に戻した後で、また花子の視点に寄せている。
 全知視点では、全ての事柄を記述することが可能なので、情報の取捨選択が必要となる。また、「今読んでいる部分の登場人物の視点は誰?」と読み手が困惑しないよう、いわゆる「視点の混同」に気を配る必要がある。
 筆者が視点の混同の対策として思い付いたものを以下に挙げる。

 なお、第2回おちゃラジにおいては、以下の内容を余談として語った。
 物語の途中で視点が切り替わる小説も、捉え方によっては、広い意味で全知視点の小説だといえるかもしれない。「三人称一元視点」に対応する言葉として、「三人称多元視点」という言葉を用いる人もいるようだ。筆者は過去に、主役格2名の視点を場面ごとに交互に切り替えて書いていく方法で小説を書いたことがある。ある場面では太郎の視点で書き、その次の場面では花子の視点で書く、というような具合である。また、筆者は、同じ出来事を主役格2名の両方の立場から順に書く試みを行なったこともある。読み手が太郎視点から読み始めるか、それとも花子視点から読み始めるかで、読後感が異なる作品となりえる。
 以上、本章では、三人称視点の書き方について、西郷(1975)を引き合いに出しつつ、筆者の見解を述べた。次章では、1文の長さと読点のタイミング(句読点の多さ)について述べる。


3.1文の長さと読点のタイミング(句読点の多さ)

 本章では、1文の長さ、および、読点のタイミング(句読点の多さ)について述べる。
 まず、1文の長さに関しては、小学生向けの作文指導でよく唱えられる「1文の長さは50字程度にするべし」という言説に全面的に同意する。基本の文字数は50字程度、多くても70字以内にしておいて、時折、表現効果を狙って、文を短くしたり長くしたりすると、文章全体にメリハリがつき、冗長さが減る。
 以下は、登場人物の知覚した情報を、体言止めの短い文の3連続で表現したものである。

 また、読点を使わずに1文を100字程度にし、早口言葉を表わすことも可能である。

 1文を短くする方法は、節が切れる度に句点を打ち、従属節や連体修飾構文を極力用いないことである。逆に、1文を長くするためには、「従属節」および「連体修飾構文」を多用すればよい。これについて軽く述べる。
 従属節は、それ単体では完全な文となることができず、完全な文となるためには主節を必要とする。そのため、自然と1文が長くなるのである。「明日花見に行こう」とするよりも、「もし明日晴れたら、花見に行こう」とするほうが、1文あたりの字数は多くなる、という具合である。

 また、連体修飾構文は、主要名詞と、それを修飾する連体修飾節(形容詞節)からなる。連体修飾構文には「内の関係」「外の関係」があることが知られている。「内の関係」は、主要名詞を連体修飾節の中に入れ込んで完全な文を作成できるタイプである(例えば「妹が昨日買ったりんご」は「妹が昨日りんごを買った」とすることができる)。一方、「外の関係」は、主要名詞を連体修飾節に入れ込んで完全な文を作成することが不可能である(例えば「魚を焼くにおい」は「においが魚を焼く」「魚がにおいを焼く」のようにすることができない)。
 連体修飾構文が1文を長くする要因であることを、以下に示す。

 (18a) を1文で表わそうと試みたものが、(18b) および (18c) である。どちらも日本語として問題はないが、(18b) は主語が「りんご」から「妹」に変更されており、主語が「妹」で統一されている (18c) と比べて、可読性が低いように筆者には感じられる。連体修飾構文を用いる際は、主語の切り替えに注意する必要があるといえる。
 連体修飾構文を用いると、字数は増加する。というのも、主語や目的語の位置にくる名詞が、連体修飾節の存在によって長くなるため、必然的に字数が増えるのである(主語の主要名詞だけを長い連体修飾節で修飾するだけでも字数は単純に増加する。主語と目的語の主要名詞を長い連体修飾節で修飾する場合は尚更である)。
 従属節や連体修飾構文を効果的に用いながらも、1文をなるべく短くしたい場合は、従属節を適宜区切ったり、連体修飾構文を通常の叙述文にひらいたりするとよい。筆者が長めの文を短く区切ろうとする際は、主語が変わるタイミングを目安にしている。主語が同じものを1つの塊として考えて、主語が変わるところで区切る、という塩梅である。

 (19) は1文が57字で、筆者の感覚では長過ぎるとは感じない。しかし、主語が「寒さが」「桜は」「満開の花が」と変わっていて、少しばかり忙しない印象を受ける。これに対し、(20) は、従属節「~て」および「~だが」の、主語が変わるタイミングで文を区切っている。個人的には、(19) と比べ、(20) のほうが可読性が高く感じられる。
 次に、読点のタイミングについて述べる。

 (21a)-(21c) のタイミングで読点を打つと、いわゆる「読みやすい」文章になる。(21d) については、読点を意図的に沢山打ったり、あるいは全く打たなかったりする方法がある。読点を沢山打つと、ゆっくりと呼吸しているような表現 (22) や、息を切らせているような表現 (23) にしたり、(24) のように文章にリズム感を持たせたり、(25) のように注目させたい部分を強調したりと、様々な効果が生まれる。

 (25) はいずれも、連体修飾節「砂糖をふんだんに使った」とイ形容詞「甘い」が、主要名詞「ケーキ」を修飾している。しかし、読点の位置や個数によって、文意が微妙に異なる。(25a) は可読性が低いとはいえない。フラットな感じがする。(25b) はいわゆる「読みやすさ」を重視した読点の打ち方である。(25c) では甘さが強調されており、(25d) では甘さとケーキが強調されると同時にゆっくり食べている感じもする。
 ここまで、読点を沢山打つ場合について述べた。これに対し、読点を打たない場合、さっと気持ちよく読み進めることができる。このため、戦闘シーンや小気味よい会話など、どんどん読ませたい場面で読点を控えめにすると効果的である。

 (26) は戦闘シーン、(27) はテンポよく読ませたい会話シーンである。

 以上、本章では、1文の長さと読点のタイミングについて述べた。次章では、地の文と会話文のバランス、および、地の文の文字数について述べる。


4.地の文と会話文のバランス、地の文の文字数

 本章ではまず、地の文と会話文のバランス、および、地の文の文字数について端的に述べる。

 筆者は会話文を書く際、必要であれば1人の発話者に延々と喋らせる。相槌が必要であると考えあ場合は、会話の合間に「それで?」「興味深いですねえ」のような相槌を入れる。
 会話文を書く際に混乱しうる要因は、誰が話しているのか分からなくなる、ということである。これを防ぐために、筆者は、その場面に何人いても、メインで会話をしている人は基本的に2人に絞っておき、もし他の誰かが発話する場合は必ず地の文でそれを明示する。発話者を特定するためのガイドとしての地の文は、20字もあれば事足りるであろう。
 会話文の間に「発話者は誰か、どのような状況か」を説明する地の文を入れるもよし、会話文を延々と書き連ねるもよし。文字数の束縛から自由になろう。
 会話文が長くなる場合同様、地の文が長くなる場合も、往々にしてある。登場人物が置かれている状況、登場人物が行動している様子、登場人物の心情を描写する場合は、地の文が長くなりがちである。しかし、その際、「何か長い気がするから削ろう」と思考するのは些か危険であると、筆者は考える。必要であれば、地の文はいくら長くてもよい。文字数の束縛から自由になろう。
 地の文には幾つかの役割があると、筆者は考える。もし地の文が思い浮かばない場合は、その地の文の役割を意識するとよい。今から書こうとしている地の文は、この物語の中でどのような役割を担うことになるだろうか? と常に考えておくと、地の文は格段に書きやすくなる。
 まずは、地の文を大きく2つに切り分ける。「情景描写」「状況描写」「行動描写」など、出来事や事実が記述された客観性のある描写、そして、「発話」「心情描写」など、人物の感情が表現された、主観性のある描写の、2つである。
 そして、それらの役割を意識しながら、地の文を書く理由を考える。今このタイミングで書くべきは、主人公の心情や五感表現だろうか? 主人公の置かれた状況の詳細説明だろうか? 主人公の行動とその背景だろうか? というように内省する。三人称全知視点なら、誰か別の視点で書くことも可能である。その場合は誰の視点にするか? それは何故か? 内面を書くか、状況や行動を書くか? それは何故か?

 (29e) について、「仕事が終わって帰宅し、コンビニのご飯を食べて、寝る準備をしてベッドに入る」という行動を例に挙げる。細かく描写しようと思えばかなり詳しく書くことが可能である。

 以上から分かるように、いくらでも詳しくすることが可能である(このシーンだけで1万字を書こうと思えば、もしかすると書けるかもしれない)。どの部分を書いて、どの部分を書かないか? という情報の取捨選択が必要となる。(30) のどの部分を書くか、その理由は何か、という一例を、(31) に示した。

 以上、本章では、「文字数の束縛から自由になろう」ということ、および、地の文の役割の明確化、そして、何を書くか(あるいは書かないか)の情報の取捨選択を行なう際には、その理由を明確にしておくことの重要性について述べた。小説は、正解も不正解もない芸術作品である。しかし、その場の勢いに任せて書かれた論理的矛盾を孕む作品と比して、背景情報や理由が明確化されている作品は、より安心して読める印象がある。
 本章の内容を踏まえた上で、次章では、場面転換について述べる。


5.場面転換

 本章では、場面転換について述べる。筆者は場面転換を行なう際、「こういう理由があるから、場面を切り替える」「必要だから、する」という気持ちを持っている(そして、たいていの場合、理由を何らかの形で明示する)。もしも場面転換が唐突だと感じる場合、そもそもその場面転換が不必要である場合がある。
 なお、唐突感を無くすために、記号や空行を挟むという手法もある。
 場面転換をどのように行なうかの例として、兄妹(中学2年生の太郎と、小学3年生の花子)が朝食時に喧嘩し、そのまま学校へ行く、という場面設定をしてみた。

 この後にどう書くか、何が書きたいか? 想定される展開は、「登校途中の花子の様子が書きたい」「その日の花子の学校の様子が書きたい」「帰宅した花子の様子が書きたい」「太郎との仲直りが書きたい」等、幾つか考えられる。
 まずは登校途中の様子を記述してみよう。(32) にそのまま続ける形で、場面は変えていない。

 次は、(32) から続ける形で、気まずい思いをしながら学校で一日を過ごす花子の様子である。

 最後に、仲直りする場面の書き出しを以下に示す。こちらは、(32) から続ける形で、花子の帰宅時点まで時間を一気に進めた。その時間的空白を、空行で示している。

 本章の内容は以上である。


6.おわりに

 本レポートでは、第2回おちゃラジの内容を踏まえ、地の文に関する筆者の見解を述べた。
 第1章では、「そもそも地の文とは?」について述べた。地の文の定義について、筆者の立場を明確にしたうえで、おたよりの疑問に答えた。
 次に、第2章では、「三人称視点の書き方」について述べた。まず西郷(1975)の主張する「限定視点」「全知視点」「客観視点」を紹介し、それぞれの視点での書き方について例文とその解説を示した。また、視点の混同を防ぐためのポイントについても述べた。
 そして、第3章では、「1文の長さと読点のタイミング(句読点の多さ)」について述べた。1文の長さについては、基本的には50字程度にしておき、表現効果を狙って文の長短を調整するのがよい、というのが筆者の主張である。また、可読性向上のための読点の打ち方の他、表現効果としての読点の用い方についても述べた。
 第4章では、「地の文と会話文のバランス」「地の文の文字数」について述べた。文字数の束縛から自由になろう。また、地の文が何も思い浮かばない際の描写の取っ掛かりとして、「地の文の役割の明確化」および「どの程度詳しく書くか」についても述べた。
 第5章では、「場面転換」について述べた。筆者は基本的に、「理由があるから、場面を切り替える」というスタンスである。
 最後に、今後の課題を簡単に述べたい。
 今回のレポートでは、参照した先行研究が少なかった(1.4万字も書いたのに、たった3つってどういうことですか?)。また、孫引きもしている。本レポートの内容をもとにした同人誌の制作や電子書籍化など、本レポートを何らかの形で昇華させる際には、先行研究を丁寧に紐解き、必要があればその紹介も行うべきである。
 第2回おちゃラジの内容を踏まえた、地の文に関する一考察のレポートは、以上である。


参考文献

『精選版日本国語大辞典』(『コトバンク』より)
西郷竹彦 (1975)『文芸学講座(Ⅰ) 視点・形象・構造』明治書院 改版1998は恒文社
高野敦志 (2005)「主題化された人物と「視点」」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第3分冊p.81-88

文章の長さ: 短編(~2万字程度)
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